「教育」を客観視するための1冊

『中原中也詩集』

大岡昇平編
岩波書店(1981年)


♣♣♣

「さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤もと感じ
一生懸命郷に従つてもみたのだが
今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに」

これは中原中也の詩、「憔悴」の一節です。「憔悴」は長い詩ですが、時々、ふとこの部分が頭に浮かんできて、そのたびに詩集をひっぱり出してきては全文を読む、ということをやっています。

今回、私が紹介するのは『中原中也詩集』です。メディアセンターには、彼の人生を辿ることのできる『新潮日本文学アルバム 30』も置いてありますので、合わせて読んでみるとよいと思います。

中原中也は30歳で亡くなりました。彼は酒癖が悪く、周囲の人からの評判もよくはありませんでした。裕福な家に生まれたのですが、彼の放蕩によって、金銭的な面でも実家に迷惑をかけていたようです。彼の一生は、「詩を書く」ということだけに費やされました。中也はおそらく「学校」や「教育」に、まるで関心がなかったであろうと思います。そんな中也の書いた詩が、今は国語の教科書に載っているのですから、おもしろいものです。

さて、冒頭の詩に戻りましょう。特に私が好きなのは、「今日また自分に帰るのだ ひっぱったゴムを手離したやうに」という部分です。

現在、「コミュニケーション力」なんて言葉が流行っていて、「人を相手」にしなければ、生きていけないような印象を受けます。事実、そのような面もあるのかもしれませんが、自分の学生時代を振り返ると、人見知りばかりしていた学生だったことを思い出します。それで寂しい思いをしたことはありませんし、逆にひとりの時間があまりにもとれないと、落ち着かなくなりました。このような私は学生に、「コミュニケーション力」をうまく指導することができません。

中也の詩から言えば、「人を相手」にしている時間とは、ゴムがぴんと張っているイメージです。「今日また自分に帰る」という言葉を、ひとりの時間の「自分」とするならば、「ひっぱったゴムを手離した」時の安堵感や解放感と重なります。

「コミュニケーション力」を重視する立場からは、「人を相手」にする時間があるからこそ、ひとりの時間が充実するのだ、と言うのかもしれません。その考えも正しいとは思います。けれども強調しておきたいのは、中也の詩が、「人を相手」にする時間の“否定”によって、生み出されているという点です。

彼の人生を辿り、詩を読んでいくと、「教育」という名のもとで「正しい」とされていることが、実は間違っているのかもしれない、と思えてきます。「教育」を客観視するためにも、できれば教育者を目指す人に、読んでほしい詩集です。


2014年10月
子ども発達学科 准教授 布村 育子

一般図書
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