文学作品で終わらない―荷風と荷風の見た時代史探訪

『摘録断腸亭日乗』(上・下)

永井荷風著 ; 磯田光一編
岩波書店(1987年)


人文科学、社会科学、あらゆる人の興味を満足させる1冊

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本書は、大正6(1917)年から死の直前(昭和34(1959)年)までの永井荷風の日記を磯田が編纂したものである。荷風は、「濹東綺譚」「アメリカ物語」「日和下駄」などの作品を著し、小説家、随筆家、翻訳家、脚本家として、明治から昭和まで活躍した。荷風は明治29(1896)年頃から文章修業のために日記をつけ始めたという。したがって、本書は日記をつけ始めてから20年以上経過して後のものである。しかし、本書上巻には「西遊日記抄」と題して、荷風が洋行(アメリカ、フランス)時の明治36(1903)年から明治41(1908)年までの日記が含まれている。

荷風は、若い時分に結婚していたが、満79歳で亡くなるまで、独り身をとおした。しかし、何十人もの女性と浮名を流している。つきあった女性たちの名前や履歴、職業まで事細かく、ある日の記録として残している。記録家としての荷風の特徴が見てとれる例である。散歩をし、気になった橋を発見すると、都内の橋を地域ごとに整理してみたり、川や道を整理して記録してみたり、ということを行っている。墨田川の桜は誰が植樹したのか、上流から下流にわたって植樹の記念碑を確認し、記録している。食品、本、雑貨の値段、印税がいくらかなども記述され、物価をそこから読み取ることも可能である。女性の時代時代の服装の特徴を描写もしている。風俗としての資料価値も本書にはある。

太平洋戦争に突入し、戦中の人々の生きざま、軍や政府の動きを細かく記述している。新聞などのメディアが軍部や政府に操られていく様子を記述し、文学を含めた芸術が衰退する模様も本書は理解させてくれる。また、荷風自身は戦争の罹災者であり、罹災ドキュメントとしての意味合いも本書は有している。

断腸亭日乗は、文学的作品として高く評価されるものであるが、上記のとおり人文地理学的な資料として、また物価史、文化史、政治史の資料としての価値も高いものである。さらに荷風のとるコミュニケーションの仕方がどのような影響を人々に与え、それが本人にどのように返ってくるかも確認することができる。本書は、文学作品としても楽しめるものであり、人文科学、社会科学のあらゆる学徒の興味を満足させてくれるものである。学生の皆さんにはぜひ薦めたい書籍である。


2016年3月
人間文化学科 教授 古澤照幸

一般図書
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